Infinite fruit
■DATE2006/06/15
2006年5月30日~6月5日まで、Yasueさんと二人展をした。
その名も Infinite fruit ~永遠の果実~
変化変更は世の常。3人展だったものは2人展に(←3人目は見えない存在)変更になり、タイトルも「ソラリスコード」から 「インフィニティフルーツ」に。フルーツは子宮で、 「宇宙の霊感」を孕んでいる。その打ち合わせの前後に、私はある瑪瑙を手に入れた。
透明さと、そこからじんわり深い色に変化していく瑪瑙の色は、まるで肉の果実のようだった。
肉の果実。それは子宮。宇宙を孕む永遠の果実。
何が待つのか、この作品展。何かの予感を孕む果実。果実はどんな風に熟すのだろう?
さて、作品展の搬入の日。
私は作品にタイトルをつけていない。なんとはなしに、思いつく単語をただカードに印字して持って行っただけ。それを見たヤさんが、カードを一枚一枚選り分けだした。
「……?????」
どうやら、後付けタイトルで、この作品にはこのタイトル、という風に選り分けているらしい。本人はその自覚がなくやっている。
彼女は、行動不明なまま何かをやりだす事が多い。ナチュラルチャネラーなのだ。突然、窓を閉めたり、カーテンを開けたり閉めたり、水を飲んだり、座る場所を選んだり、そんな感じ。そういう彼女が作品にタイトルを付けると、作品にタイトルが「添う」ってくる感じがする。タイトルを付けた作品が、タイトルっぽくなっていく。
オモシロイ。
作品もその気になってくるようだ。タイトルを二つ付けた作品もあった。こうなったら、なんでもアリだ(この二人のいつものノリ)生きている作品の鼓動を感じた。
タイトルに添って、脈動を始める作品。。。。
この作品展の直前に、わたしと彼女は「普通」ということで盛り上がった。軽重でいくと、「いとも普通」ということは、「いとも軽い」ということ。「普通」であるということは、軽いということだという風に。重々しくない。エロもハダカも軽い(!?)普通にあることを、みんなが重くしているだけなのだと。宇宙も当たり前に普通にありのままにそこにあるではないか。
エロも普通に皆が得ろ。
普通、日常って、軽いのだ… あるがままって、軽いのだ…「異常に凄い」って、実は「異常に普通」のことかもしれない。異常に普通だから、すごいのかもなどなど、わけのわからない話で盛り上がりまくる。そうして、動きというものは軽く、思考は重いのだな、という話になり。
「けれど、動きがあって、思考が後からついていくと、重い筈の思考が軽くなるね」<Y
「ああ、そうか…」<L
すでに動いているものに、思考が沿う。
ああ、この、添う、と云うのがたまらないかもしれない。。。
…器に沿う…体に添う…
『沿う』は「基準となるものに従う」で、
『添う』は「離れずにいる」 だそうだ。
この、「添う」というとこにかなりぐっと来た。
思考が寄り添う者を得て、喜んでいる感じだ。
そうそう。添う沿う。
そうそう、という相槌というのは、添うということなんだ。きっと。
以前、知り合いが、倍音の達人に聞いた話とも同じだ。思考を手放さずに、音を追う
。 後追い思考。そんなことを、ワイワイ騒いでいた後に、この、タイトルが作品に添う、というのが来たわけだ。まさしく、後追い思考。後付け意味。そして、軽々と舞うような。
そうしてギャラリーに通う毎日が始まり。いろいろな人が来る。友人知人、通りすがりの人、さまざま。
ギャラリーのある本郷三丁目界隈は、濃厚だった。(東大がマニアの集まりだから、濃厚になるのかもね)飲食店は、学生街ということもあるのか、安くておいしいお店が多い。エスニック料理をメインに、毎日夕方になると、ギャラリーを出て、食事に行く。
ヤさんと、お客に来た友人かたがたと毎日のように飲んで食べて話してカードしたりリーディングしたりチャネったり。いったい、何の会なのかと思うくらい、なんでもありな作品展になった。
話も濃厚。
あっちにこっちに、話題が飛びまくっては 、宇宙のことや、東大の標本のことや琥珀のことや(ギャラリーの二階が骨董品店で、琥珀も置いている)キリストの話(スピの云う「キリスト意識」ってヤツ)、聖母の話、ガネーシャのこと(水曜日ってガネーシャの日なんだそうだ。来たお客さんが教えてくれた)ベジタリアンのことから食育の話になって粘膜の話になって、「粘膜って字は『米に占う』なのか。わけがわからないよね」という、話していてもなんのことやらわけのわからない気づきや (そういえば、米が異なれば糞だ)東大小石川植物園にあった、コンクリートをマタに抱え込んだ巨木(←東京にしては巨木)を見て私とヤさんがウケまくった話=「わかんないことがあったら、マタに挟んでしまえ!」という、脈絡無く、とめどなく流れていく話(←股が考えてくれるだろう的)東大の陳列館にあった貝の標本を見た時には
「これって、どーだっていいじゃん、な形してるよね」
「ほんとだー」
(この会話自体がどーでもいい普通に軽い感)
植物の標本は、美的に美しく、美を目指さないで美しいという発見をして、二人で大喜びしたり。エロとスピを受粉させて妊娠、とか、もーとめどなく 日を追うごとにエスカレートしていく。果実は熟し、永遠へと、循環のひとめぐり。インフィニティフルーツが、たわわに実る。。。そうして作品展が終了した。
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来ていただいた方々には、愛と感謝を捧げます。
ありがとう。
果実の名前は「ありがとう」今の、純粋な気持ちです。
昨日も、そして、いままさに、ありがとうの波を貴方に捧げます。
私は、考え、思い、そして熟しました。その全てが、起こる出来事の結実した証として、今の私の中にあります。昨日は、Yaさんと二人で、熟した果実の打ち上げをしました。いろいろなことを受け取り、それをまた、永遠の方向へと流してくような打ち上げでした。
目に見えない存在の喜びも感じつつ、呑みました。
私たちは、まだ熟しきれていない果実のままの「人間」という存在ですが、その、未熟さを「今」噛み締めて味わっています。未熟ながらも、試行錯誤し、改め、受け取り、捨てて、善きように、生まれるままに、熟しようとしている果実として、今を生きている人間として、変化の時を生きている。
私はこれを、喜びとして、感謝とともに、今を生きている方々とともに味わいたい。それが、私の望む事。
今回の作品展では、出会う人ごとにわき上がる感情があり、それのどこれもこれもが、熟する時のための味わいでした。そのどれもが宝物として、私を包み込んでいる。
これから何が待っていようとも、どんな出来事が降り掛かろうとも、味わい尽くす勇気を与えてくれました。そんなことを考えつつ、今日という日もまた更けていきます。
人間として生きているという事の実感を味わっている、最高の時を与えてくれた宇宙にも、最高の感謝をささげつつ。
ありがとう。
飛び込みで、私の作品を見てくださった方も、ありがとう。東大にもありがとう。本郷三丁目にもありがとう。
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実りは「うたげ」
貴方の「うたげ」、私の「うたげ」
そのたわわな実りを、いまここに。
ひとつのおわりは
ひとつのはじまり。
作品展の終わりは、何かが始まった事のしるし。
何が始まったのだろう?
作品展を振り返った。
ぼんやりと、こういうイベントがあってもいいかな、と 思いつく。来てくれる方々と作って行くイベント。作品展という場所で、来た人とさまざまな交流をする。カードリーディング、セッション、おしゃべり、食べ、飲み、またしゃべり。気付いた事を、お互いにシェアし合う。そして、シェアした事からまた新たな気付きを得る。それは、終わりの無い茶話会。エンドレスに続く気付きの螺旋。ひらめきは、ひらめきを呼び、遠くのひらめきに感応し、それがまたシンクロの形で帰ってくる。作品を見るだけの人も居るだろうし、作者の私たちと様々な気付きをシェアリングする人も居るだろう。おしゃべりの中で気付くことは多い。それが、食べたり飲んだりすることで加速がつく。作品があることで、ひらめきや、シンクロや、感応のフィールドが出来あがる。受け取るものも受け取らないものも、相手まかせ。
ただ、場所があり、交流があり。
目的も無く、流れて行く時間と空間。
その先には、それぞれの変化があり、 それを持って帰ってもらう。
ああ、なんか見えて来た。
そうだ。そういうイベントしよう。
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