選択することとその意思
■ DATE 2008/01/00
「楽になる」という メッセージが多く来ていた。なんだか全然楽じゃない、と思っていたので半分文句を言いながら過ごしていた。
そんな中、 仏教ルネサンス塾という青松寺で行われていたイベントの番外編が紀伊国屋ホールであり、この春に見た上田塾長とダライラマ対談のビデオを再び見て、トークイベントを聞き。
............ 再び仏教に向き合う。
このイベントの時、ダライラマとの対談の本を買った。読み進むうち、見えて来たものがある。
慈悲と思いやりと愛
いつもいつも、お題目のように耳にして来た言葉だ。殆ど身体に抗体が出来てしまったかのような言葉だ。のだが。
改めて、新ためて、『慈悲と思いやりと愛』何故これほどまでに、ダライラマは慈悲と思いやりを世界に向けて発信し続けているのだろうか。
それは、チベットの悲惨な状況が背景にあるのはもちろんだけども、それ以上に、時代に押された法王自身の心の質が、彼にエネルギーを与え続けているからだ、と、本を読んで思った。
ダライラマは、観音菩薩の化身。
菩薩とは、仏になりなさいという、阿弥陀仏の勧めを断って衆生の苦しみを救いきりたいという祈願のもとに転生を繰り返している存在だ。衆生救済の為には、怒りもし、執着もする。そのダライラマを、上田塾長は
「生死に先立つ『意志』がある。存在に先立つものとして『意志』がある」と評した。
これだ。
「意志」そして、「意識」「集中」「選択」
駅で、募金をしていた。
肝移植を待つ人の。一度通り過ぎてから戻って、募金した。臓器移植は賛否両論ある。でも、この移植を待つ人は、臓器移植を「選択」した。ならば、その選択を応援しようと。
それは巡り巡って、自分の「選択」に力を与えるような気がしたからだ。
毎日、毎時、毎分、毎秒、人は選択し続けている。
ただ、そこに意志の集中があるか無いかの違いがある。
意志を以ての選択と
選択に集中すること
もんやりと選択する時代は終わったのだ。
目の前にあるもの全てに、意識からの、選択肢の呼びかけがあり、その中から、意志に因る選択が起こる。全ての事を自分自身で選択しているという認識。
自分の中に湧き起こる全ては「選択」されている。
自己によって。
外界からの刺激に対して、内界の反応が起こる事は、全て「選択」の上にある。
わたしは、意志を以て、怒り悲しみ喜び楽しむ。
顕在意識がそれを認識し始めた様だ。
『意識』が『意志』を。
今現在、ここに座り、立ち、歩き、空を眺め、水を飲みペンを動かし。。。。
全て、外的な働きかけに、選択し続けている自分がいる。地球という星の日本という国に生まれ、両親を選び友を選び、仕事を選び、パートナーを選び、全ての環境を選んでいるわたし。
それを、意識で認識しているか否か。意志の時代。
「生死に先立つ『意志』に因って」
生き仏としてある、ダライラマ。
そんなことを考えながら歩いていると
「LINK IT ALL」というファッションブランドの ロゴが目に飛びこんでくる。
これはまるで、私の中の内的会話…潜在意識と顕在意識が顕在化しているようなものだ。
果てしなく続く創造主と被創造主の会話。
共に同じ存在であるもの。
友。
自分の中に湧き起こる感情を観た。あきらかに、そうしようとして怒り(怒ろうとして怒り)そうしようとして悲しみ(悲しもうとして悲しみ)そうしようとして喜び(喜ぼうとして喜び)そうしようとして楽しむ(楽しもうとして楽しむ)リンクしていなかった場所にリンクして、今までは、そう思えなかったことがそう思えるようになってきた。
日常的に、潜在意識が顕在意識に投げかけて来る言葉は多い。
その中に『センターポール』『因』『リンク』という言葉がばらばらにあった。
それを繋げることができなければ潜在意識との会話は出来ない。
因子
という潜在意識の言葉を受け取る。
……因子か。そうか。
意志を育てる因子のことか。言葉かもしれない。コトノハ。言霊。イノチ。
それはどんなものだろうか。もしやそれは???それは?
太陽と水と土の養分という因で
種は大樹に育つ。
感情は種。感情はポテンシャル(潜在能力)感情は因。
それを種にして育つもなにものかががある。
因子を解き放て
さらに言えば、自分が選択して内側から反応した事でまた自分自身への認識が深まる、というか。そこまでして、自分を導いている自分がいる、という …驚きがある。
それは、俗に云う 「真我」 というものだろうか。…
自分を育て、自分に気付かせ、自分を育んでいる自分。
一体全体、それはなんなんだ?自分に気付かせる為に、刺激し、反応を起こさせ気付かせ、学ばせている。それも自分としたら、一体『ソレ』とは?
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