師匠という存在

 言霊学を学んでいて「今なら質問ができるのに…」 言霊学の師は既に故人。

師というけど、電話で一度話しただけの方。その時に「わからないことがあったら、何時でも質問してください」とおっしゃってくれた。が。 しかし、学び始めに、質問なんか浮かぶ訳もなく。理解もなにもない白紙状態では、何が疑問なのかも出て来ない。口ぱくぱくが限界。。。。

そして、今、やっと質問が浮かぶくらいまで私が進展したのに師は居ない… 

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私には、もうひとり、インド哲学の師匠がいる。 この師匠は、わたしの傲慢ゆえ、なかなか師としてあおげなかったものだが。。。 それが、今はその機会を与えてくれた感謝と、貴重な時間をくれた自分自身への信頼が生まれている。

一時期は、クラスのひとたちそれぞれの先生への感想(=風評)などが耳に入ってきて、自分のスタンスがぐらぐらになり、周りの影響を受けまくり(それは私の弱さであったけど)先生への尊敬と感謝がゆらゆら。 ほんとに、それまでは先生への感謝と尊敬は揺るぎなかったのに。

でも、それはよく考えてみると、自分への信頼でもあり。

インド哲学をインドのそれもブラフマナから(直接に)学べるという機会を日本で得られること自体、奇跡と思っていたし…その内容も、自分が長く求めてきた問いの応えでもあったから。それはもう、ほんとうに、感謝は大きかった。 その機会を得た自分の人生というものにも、不思議な力を感じていた。 だから、師への信頼は自分への信頼でもあった。 

それがゆらゆらしてしまったわけで。。。。 

で、結局いろいろな経験を経て、そのゆらゆらさえ自己への信頼の修行というか試しというか実験でもあったと知り、ゆらゆらを経るとそれはそれでもっと自己の揺るぎなさに自信がついたと言うか。自己への信頼だという気づきを得るまで、ゆらゆらしたと云うか。 ゆらゆらさえも信頼なのだと気づくまでというか。

   …師とはなんだろう… 

自分は、師を求めるタイプではなかった。 どちらかというと、自己完結型で、傲慢でえらそーな人。あまり他人を信用せず、ましてや他人の言葉などは。師などとんでもはっぷん。 それが突然、先生といわれる人に出会って。 師という意識がなかったけど、おもいっきり師だった。

   へー、師だったんだ…

という発見(傲慢すぎだぜ自分!) 

そして、サンスクリット文法を学ぶ中で出て来た「師弟」の主題。

実は実は実は『師弟という主題』はとても重要なものというのを発見して…後付けに色々理解があって、『師弟』とは世界と自分という主題、シニフィアンシニフィエという主題、主体と客体能動と受動、それらと絡む非常に核心を突いた重要な主題なのだと気づく。 

ああ。 それらからどれだけ教えられたろう。。。。  


そしてあるとき

最高の師匠の存在に気づく

わたしの最高の師は わたし自身の人生だった

誰に尋ねるわけでもなく

誰に師事するわけでもなく

やみくもに 自分を生きて来た

その自分の路そのものが わたしの師の示してくれた 路だった

その事に気がついた時「もう、迷うまい」と

わたしの師は「真我」という名前

ギーターでは「クリシュナ」という名前

「空」という名「梵」という名「ア」「天」そして「イノチ」

人生が示してくれる教えに 耳を傾けるだけ

フシギカタチのおしゃべり

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